昭和49年08月23日 朝の御理解
御理解 第70節
「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」
教祖様の教えて下さる、こういう、道理に合うた信心をせねばならぬ、と言う様に道理に合うた生き方を人間がするなら、世の中は愈々明るく平和で、そして豊かなそれこそこの世全体が、この世の極楽と言う様なおかげが頂かれるです。勿論貧乏もない、争いもない、ね、病気もないと言う程しの世の中が(実現?)するに違いはない。所が道理に合う所か、道理に反した生き方。人間のいわば賢しい知恵だけで生きて行こうと言う様な事になって来たのが、今日のいわば地球上の難儀と言うのだと私は思う。
もうそれも頂点に達したというような感じがする。ようやくまあ一部の人間がそれに気付いてきた。人間の知恵力ではどうでも、ね、行く所まで行ったけれども、それでは人間の幸せがあり得ない事が分かってきた。そして心と言う事を言いだした。ね。なら心をどう言う所に焦点を置くかと言うと、そこはまだ皆がわかってない。心を大事にしなければならないとか、ね、と言う事が分かって来たけれども、その心をどこに焦点を置くかという事が分かっていない。
それを教祖はこのように的確に、ね、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬと教えられた。素晴らしいですね。ね。人間は万物の霊長。ですからこの万物の霊長であるから、所謂その霊徳と言うか。それは備わっておるもの。お互い、人間万物の霊長として、これはそれは人間だけじゃ、自分よがりに自分だけが霊長だと言っておるのじゃない。矢張り神様がそれを見とめてござる。その証拠には人間だけには、なら良心というものが、例えばあるという一例を言うても、ね。
矢張り沢山な生物というかね、地球上には沢山ないわゆる動物、生物があるのだけれどもその中で、なら一番高級なというか。ね、ものとして、天地の親神様は見とめておられる。そこで人間はその万物の霊長であるから、その霊徳というものが皆にある。その霊徳がお互い、ね、我情我欲。いわゆる人間の知恵力の賢しい生き方を、道理に反した生き方をするから、行き詰まりがくる。私は昨日お取次をさせて頂いて、特に感じたことですけれども、もう昨日で三日ですから三日前の話ですけど。
日田の綾部さんのお導きで、すぐ近所の方だそうですが、お母さんが七年間病気で、病院に入院しておられて、愈々見放されて帰って来とられる。もう勿論まあ湯水も通らんと言う様な状態である七年間。それをお願いに参りましたから、お取次させて頂いたら、「薬毒」と言う事を頂いたんです。七年間の間にもう様々な薬を飲み、様々な注射をしてそして、結局はどう言う事になるか、湯水も通らんような結果にしてしもうとる。
これも昨日矢張り日田から、最近お参りをして来ておる方が大変おかげを受けて、その方が近所にノイローゼで、それもひどいノイローゼです。で難儀をしておられるから、お導きをして来たいからいいでしょうか、そんなその(私の?)事でも良いでしょうかという方構わんよと。おかげ頂いた人が( )も、もうそれこそひどいノイローゼの方達がおかげを受けたり行っておる人達が幾人もあるから、いいですよと言うておりましたから、昨日その本人を連れて参って来ましたら、成程ひどい。
それも長い間病院におったけれども思わしくないから帰ってきて、結局まあ薬から何頂きに行くらしいですけれども矢張りこれも薬毒。だからこの薬の毒が切れてしまなきゃ良くならんて神様が。だから薬を止める。まあ色々そのご主人になる方それから導いてきた方達がこう一緒に連れて来ておりましたから、お話をしとるのを分かるか分からんか知らんけれどもここでお話を頂いて帰りがけには、きちっと挨拶して帰られました。
ほんに今日はもうあなたからよかとこに紹介して頂いて、本当に有り難いまあ自分もここで助かられるかも知れんと言う様な意味の事を、お礼を言うて帰られました。もう本当にそうまともな感じでした。それは体が薬毒でもうこう、どっこいどっこいのごたるけども、動かんような感じですねこれは薬毒です。ね。どうかで薬を飲むと言う事はね、これはもう毒を体の中に入れとるとと同じ事です。
昨日これもあの、福岡の池田さんが、大変難儀をしておられる知った方が、病院に入院しておられると言うので。そこがあんまり多くてですね、何階建てかの病院だそうですが、病室がないから屋上にね、仮のベランダのようなものを作って、そしてそこを病室にしてある。もうそれで暑いこと暑いこと( )。それも小さい部屋に二人ずつも入っちゃるち。だからもうそのお婆ちゃん、替わりたいどっかに。
だからその言うらしいんです。だからその所謂信心の話をさせて頂き、なら親先生どんな風に替わったが良いかどうかと言う事をお伺いなさったんです。それはそげんあんなら替わったら良かろうばってんねち私が申しましたら、所がその病院はその何故多いかと言うとね、絶対手術をしない方針の病院だそうです。ね。また薬をその色んな薬を与えて良くなすという病院だそうです。普通の病院。したらそれを聞いたからんなら、それはもう(開く様なこつなら?そう言う事なら?)そこがよかばいち私が申しました。
自然に近い治療をしておる訳です。自然の働きに近い治療をしておる。どうかち言やあもうすぐ手術する。どうかっち言やあその痛み止めなら痛み止めの薬を飲ませる。でそのお医者さんが言われる事はね、あんた達がこうやって薬を飲むけれども、例えば手術をしてくれと言うけれどもね、そこだけは切りとって良くなるかも知れんけれどもその事で、どの位他の所に障るか分からん。
このな激しい薬を飲むから、そこの所の痛みだけは止まるかも知れんけれども、それが体に及ぼす毒というものは計り知れない。だから私はそういう治療をしないと、そのお医者さんが言われた。ならそこがよかばいて私は申しましたですけれどもね。言うならば道理に合うた治療をしておるわけです。ね。だから薬一服飲ませて頂くでも、神様にお願いしお願いし、お詫びさせて頂いて頂かんと訳読です。私は昨日その日田から二人のその重体の病人の、ね、所がどうですか。
娘さんがお母さんが七年間も病気で入院して、帰っておられるそれを子供さんが願う。明くる日からです食べ物が食べられるようになった、少し少しと(言いよるばってん?)。もうその明くる日から。昨日もその見えてから昨日も本当におかげを頂いて、もうぶどうなんかを「美味しい、美味しい」と今まではかつてない事だった。ね。神様にお願いをするとね、それはもうその言うなら薬の毒で、もう侵されに侵されておりますから。ね。今あちらの信用組合に勤めておられる方の奥さんが参って見えましょうが。
あれも、七年間も自分が病院に入院しておられてですね、注射の打ちすぎが、あの、体があんなにこんにゃくのごとなってしもうとるです。それでもうこの頃人相が良くなられましたでしょうが。顔が生き生きとして来てから、いくらかシャンとされたでしょうが。もうそういうです、例えばもう医者がさじを投げたという病人でもです、おかげの印が見えて来ると言う事です。ね。
そこでその印に元気を得て、愈々おかげを頂かなきゃならん。ね。そこで道理を聞かせてもろうて、道理に合う生き方にならなければいかん。皆さんが霊徳と言う事、人間はいわゆる霊長ですから、その霊徳というものをです、霊長というのは言うならば、その動物の中でもオサだ、長だという意味なんです。なら牛やら馬でも矢張りそういう何と言うですかね、自ずと備わる霊徳と言った様なものを、動物は全部持っています。
それが弱い力の無い例えば動物であればあるほどに、そういう霊徳というまあ霊感と言った様なものを持ってるんです。牛馬なんかでも私は先日聞かせて頂いたんですけれどもね。あの草を切ってから食べさせるでしょう。そん中に毒な草があったら絶対それを避けて食べないそうですよ。その位に感が働くわけです。ね。例えば蛇なんかの、普通では冷血動物と言われる様な動物ですらです、ね、これは雨が沢山降る大水が入るていう時にはちゃんと、それ前に高い所に上ったり高い所さに行ってしまうです。ね。
それを言うならば、霊感で感じるのですよやっぱり。そういうものが、人間にはより以上言うならば素晴らしい、その霊感的なものが誰にでもあるのです。そこで道理に合う信心させて頂いてです、いわゆる霊長は霊長としての自覚が出ける。人間私は万物の霊長だと言うて威張ったってです、その霊感一つ働かないようなことでは、なら霊長の値打ちはないです。人間らしい生き方をしないからです。
道理に反した生き方をするから、愈々霊徳というなものは、もう汚れとか垢に包まれてしもうてから、全然発揮しないようになる。ね。それを取り払うて、我情我欲を取り払うて行くような生き方をするとです、人間の言うならば霊感というものが、非常に強くなって。ね。それが霊徳とまで言う事になって来る。万物の霊長でありながらそれこそ、雨の例えば降るとか、降り照りのこと一つ分からんような事では駄目だと。そこでですお互いがまず、万物の霊長としての自覚に立たなきゃいけない。
人間は万物の霊長だと言う事。これも昨日安藤さんが初めてお導きになった親子の方があります。お話を聞かせて頂くと一言二言じゃない、色々とやっぱ難儀な問題を持っておられる。ところが私はそん時にこんな事を頂いた。「十ですね漢字の十。十は結びであり、八は開ける数である、と。観音様の御本体は一寸八分」と頂いた。一八立て一寸八分。ほれはね黄金、浅草の観音様はあんなに大きなお寺さんという一つのお宮さんですけれども、御神体は一寸八分てそろばんが決まっとる。
御神体は一寸八分。ね。観音様と言う事はこれは、たておば色んな仏様がありますけど、何々力という力を持っておられるのは、観音様だけですね。観音力と申しましょう。ね。観音力を持った人を神徳者と言うのです。ね。十というのは、ね、(じゅうじゅう切る?)と言うでしょう。結び十は結びである八は開ける。したらそのお母さんが、この息子も十八でございますて仰った。
ほおあんたが十八の時に、合楽に御神縁を頂いた。今日私とあなたが結ばれた。これからは合楽の信心さえすりゃ、もう八の字は開けると仰るから、開けるに開けることだろうと。御神縁と言う事は結ばれた私とあなたが。そこでならここでは天地の道理を説くから、天地の道理に合うた生き方をさせて頂く所からです、言うなら貧乏のない病気のない、ね、争いのない言うならば、おかげの世界に住む事が出けるんだ。しかも広がりにしかも広がって行くんだというわけです。
皆さん本当の観音力を受けるためにです、ね、御神徳を受けるために、言うならばここにこうして結ばれた縁というものを、愈々生かして行かなきゃならん。それには先ずは私が万物の霊長であるという自覚に立たなきゃいけない。それは最近ここでは、ね、合楽の御神縁を頂いておる人達が全部、先ず自分はおかげを受けておる、本当に極楽のおかげを受けておる。先ずここのお参りが出けると言う様に健康ではないかと。
まだ一日経って、食べられないという試しはないじゃないか。お繰り合わせをお願いをして、それはその日その日の、その日暮らしではあっても、お金に不自由をする様なことが無くなったじゃないか。してみるとあなたは極楽じゃないかと。はあほんにそう言われりゃ極楽だというじかくが出来るね。それを又の言葉を言うと、自分は万物の霊長としての、自覚が出けて、霊長としての当然、霊長であれば頂けれる、おかげを頂いておると言う事なんだ。ね。
そこでなら現在頂いておるそのおかげをおかげとして、神恩報謝の言うなら心持って、信心生活をさせて貰う。そこからおかげの様相というものが、もっともっとね様々な段階がございましょう極楽に。その極楽の段階をおうて、愈々誰が見ても、あちらこそ極楽だと言う様なおかげに繋がって。いわゆる十は結びであり八は開けるである。開けに開けて行かなければ嘘だと、金光様々の御信心させて頂いとって。
もしそれじゃないなら、十の万物の霊長であるだけで、成程人間の姿形は人間の格好しておるけれども、心は鬼か夜叉じゃろうかと言う様な心があるからだと、悟らにゃいかんです。鬼やら夜叉やらという訳じゃないでしょうけども、とにかく汚い自分である、霊長所ではない、汚い汚い自分であるという自覚。そこから改まりと言う事が始まってくる。ね。本気で魂を清めようと言う事になってくる。
魂を清める所から霊長としての値打ちを発揮して行く事が出けるようになって来る。ね。いわゆる極楽の言うならば自覚。ね。そういうおかげを頂いて万物の霊長。万物を見て、道理に合う信心をせねばならん。それこそ虫けらでもがです、ね、自分の身を守ると言った様な事の働きを、一つの霊感とも思われる様な働きを持っておるのにも関わらず、人間がそれこそ降り照りのこと一つ分からん様な鈍感になってしもうておる。
それは言うならば薬の毒である。薬の毒であると言う事はです、ね、人間の賢しい知恵力で作った、いわば物を持ってしておるからだと言う事です。ね。昨日テレビを見せて頂きよりましたら、あのお互いが頂いておる、あの魚肉で作ったソーセージは、全部あれは癌のもとになる物が入ってるそうですね。ほれは人間の知恵で作った力で作った。いつまで置いたっちゃ悪うならん。悪うならんはずじゃんそれが毒が入っとる。
それを続けて頂きよる。そう言う所から、ね、今まではかつてなかった様な癌までが、段々出けてくるようになった。ね、皆さんも新聞やらテレビでご存知でしょう。人間の賢しい、それこそ自然が恵んでくれたもの、自然が与えてくれたもの、育み育ててくれたもの。そういうようなものをです、ね、私どもが本当に食物として頂いて行けば、ね、それは、おかげになって行かないはずがない。ね。
それこそあげな栄養をとらにゃいけんとか、わざわざ人間の考えでする所に、さあ肉を食べても魚を食べても、痩せ細っとる人ばっかりじゃないか。ね。そげなこつなんかいっちょん考えることはいらんです。もう神様が与えて下さる食物をです、有り難く頂いてさえ行きゃあ、問題ないのだけれども。自分が賢しい何とか栄養学とか、何とかと言うね。そしてそれが結局なるほど素晴らしい学問ではあるかも知れんけれども。
結局は人間が、ね、難儀に追いこまれて行くような道を辿ってきたのが、現在の地球上に住む人間の姿だと、私は思うです。ね。もう本当にです、自然の中に溶け込んで行くような生き方。万物を見て道理に合う生き方。そういう生き方を愈々身につけて行かなければならない。それをんならそういう生き方をです、教えて下さるのが教祖様。ね。ここで皆さんが結ばれる、十の字に結ばれる。そこから開けに開けて行く所の道を辿らせて頂くということ。まずは人間万物の霊長の自覚を持たなきゃならん。
そんなら万物の霊長の自覚ということがです、ね、今までに汚れ果ててきた自分の魂を、洗い清める事に勤めなければならない。あの人は、ね、それこそ人間の姿形をしておられるけれども、心は鬼のような人、夜叉のような人であってはもう人間から、鬼やら夜叉のような心に変わってしまっとる、変質してしまっておる。だからそういう人が争いを起こすのです。ね。
私どもがまずは一つ人間万物の霊長である自覚を一つ持って。ね。自覚に立っての、愈々信心を進めて行く道理に合う生き方をする。そして今までなら、薬毒的被害を蒙っておる。薬毒的というのは、人間の知恵力でいろいろやって来た、言うなら災いの元を作ってきておる。ね、それを祓うて頂くところのおかげを受けなければならん。そして万物の霊長としての値打ちある人間にならせて頂くことを目指させて頂くところから、観音様のいわば観音力と言った様な御神徳が受けて行かれる。
言うならば万物の霊長としての霊徳を受けて行くと同時に、ね、観音力を受けて行く、御神徳を受けて行く。ね。自然の働きに逆らわない生き方。そこに天地の親神様のご信用がつく。言うなら天地の親神様の御神徳が受けられる。神徳霊徳をかね揃えて行けれる道を、教祖様は教えて下さってある。人間は万物の霊長であるであるから、まずは人間は万物の霊長である、万物の霊長である。
万物の霊長に相応しい、値打ちのある私にまずはならなければ、霊長と言うて威張っとっただけでは、もう性が変わって居る様な事では、おかげにならん。ね。そっから道理に合うた生き方が出けるようになり、霊徳神徳を身につけて、愈々人間の幸せ。いわゆる貧乏のない、病気のない勿論争いのない真善美の世界に住む事が出ける。しかも誰でもが受ける事が出来る。だからまず自分な万物の霊長としての値打ちがあるかないかをまず確かめて、霊長の値打ちのある私になる事が先ず先決です。
どうぞ。